萩原 義雄 識

此の時季、吾人は書庫の和本を取り出しては、一冊ずつ虫干しをする。其の時に何気なく文字や文言に目がとまる。ちょうど、『金光明最勝王経』〔十冊本〕卷十の「捨身飼虎」譚にとりかかった江戸宝曆年刊本の經本とはいえ、手許にあるときから虫喰いは甚だ多く、太陽に透かして見たとき、穴ぼこが一杯、此を別の和紙で裏紙して補強することで、その部分を留め置くことができるからだ。
 
○餓たる虎の前に身を 委(ユダネツト)マカせツヽ 而してもって臥(フシ井)たりき。
○是の時大-地。六-種に震-動せんこと。風の如く水(ミヅ)を激(ミナギラシメ)つゝ。涌-没して以て。月(テルヒ)の精-明あること無(ナカ)りしこと安からざるが。羅睺障(ラゴシヤウ)の如く。諸方。暗-として以て 復(マタ)フタヽビ と光-暉(アルベキヤウ)無り(ナカ)しかども。天より名-華。及び妙-香の末雨(フリ)つゝ。繽-紛と亂-墜して以て徧く林の中に満(ミチ〱)たりき。

といった具合に読み解いている自分に氣づく。茲に「委」字や「復」字を二通りに訓むことができる箇所が数多ある。これを見つけて訓むのが楽しくなる。単漢字「委」を「ゆだねる」そして「まかせる」という二つの動詞で訓むことで意味のニュアンスがどう変容するのかと見ていくとこれまた楽しい。中学二年生の女の子が漢字を真剣に学ぼうとして、多くの辞書や字典参考書物を求めに来るという話しをいきつけの古書店の主人から聞いた。この話しを吾人の研究仲間に話して聞かせたら、「大学は理系に進むねぇ」と帰って来た。文系の研究を目指す人たちが直ぐに役立つことに走り求めていることが見えてくる。なにごとも即効性で求めている物事が開きだすことはないのだが、巖からジワジワと滲み出す水のように、最初はポチョンポチョンでも、やがてバシャバシャの水の流れに変わり、大川にそしてやがては大海に注ぎこむ壮大な流れへ至るまでの時間は、思ったより長いやもしれぬが不確定さについては拭いされないのだろう。まさに、「溜池」は「ためいけ」なのだが、よく似たことばに「ためおけ【試桶】」という語があったりする。此れが日本語の使い方、使い分けで事物が異なるものとなってくる。そこには四拍の語のなかにあって、同じ位置にあり、母音「い」と「お」だけで別事物の語になっていく。ことば遊びのルールと「ことばの実際」とには、その表裏を突いていく仕組みが存在する。清むと濁るでは大違い、「ハット」と「バット」。清むと濁るでは大違い「タイヤ」と「ダイヤ」という清濁語ことば。「ちょうちょ」と「ちゅうちょ」を漢字で書くと「蝶蝶」、そして「躊躇」なのだが、茲に落し穴があるかのように「戀躇」なんて書いてしまったり、「このあと、せっけんを賜る」と聞いて「石鹸(石鹼)をいただく」と勘違い、正しくは「(貴き方から)席捲を賜る」だったりなのだが身近な暮らしのことばが頭をよぎるのが自然であったりする。

五月の風は「セイフウ」というとき、あなたはどちらの漢字を思い浮かべますか。「清風」「晴風」で五月の風は清風。五月の風は晴風。後者は『黒田清輝日記』一九一九(大正八)年五月十日土晴風アリ」と言う語例を見る。空白部を詰めてしまうと「晴風」となる。春風佳氣多「春の風は佳き氣多し」と書いてみた。
 
《補記》
1)「捨身飼虎」譚は、奈良法隆寺伝来の「玉虫の厨子」に絵画れたことで知る人も多い。


2)『金光明最勝王経』〔十帖本・架蔵本〕△捨身品第二十六(字数四千一百九十字)
宝暦十庚辰秋高嶋舛榮寂勇子
書林皇都大和屋久兵衛板元
 東都山﨑金兵衛
【已】(右)ヲハルト(左)イナヤ
【不】(右)イナヤ(左)アリシカバ
【卽】(右)スナハチ(左)タチマチ
【來】(右)モチキタル(左)サゲキタル
【逢遇】(右)アヒアフコト(左)メグリアヒアフコト
 
3)禅語「春風佳氣多」