対面開催の会は、コロナ禍以前の通常のあり方であった。そして聊か社会活動のあり方が変容してきたなかで、以前の対面開催が戻ったかのような昨今、まだ別の病原菌症名で再び動きだしていたりする。人は名を持たない不可解な物事について懼れる。このため、自然科学での研究解明は欠かせない。決して急いで結果を求めてはならないし、その公開も念には念をと石橋を叩いて渡るくらいの心構えが肝要となっていたりする。
となれば、即効性に欠けるという現代社会のめまぐるしく変動する活動とは相反する結末を迎えていく。最終結果の報告に時間がかかれば自ずと金融財政の経済には大きな負荷を与えていくことになるからだ。とは言え、限界まで追い求め、その企画姿勢が受け容れられる扉が開いていくとき、求め行く人には必ずその行動を無償で支える人もこの世の中には必ず存在するということも慥かなことのようだ。此の世の中には無駄なようで無駄なような物は、此れ一つとしてないという。活かすか、活かさないかは、人と人次第なのだろう。
此の意味では、支え合う「ひと」という「人」という漢字は、いつも上位を保持して用いられてきている文字なのかもしれない。
例えば、古典文学作品で、かな日記文学第一資料ともいう、紀貫之自筆『圡左日記』〔為家写〕と藤原定家書写本やその他系統諸本でも、原作者貫之から数百年後の定家自身が「かな表記」から「漢字表記」へと置換えをしたりするなかで、資料内容は同じでもその書き様は後世の知見のある写し手によって見事に移り変わっていくものとなっていたりする。
□かな表記「ひと」〔為家本=青豁書屋本〕と表記するところを定家本〔国宝〕では七七例と増記する。
こうしたかな表記から漢字表記へと人々の記述記載にも、その傾向として私たちの日常表記になってきているのだが、かな表記の場合、「ひを」とすべき箇所を「ひとを」と衍字したりするのであれば、「日」と「人」の意味の異なりになってしまう。別な道筋を示して行くことになろう。
また、字音熟語というなかにあって、三字熟語の漢字表記での「非凡人(ヒボンジン)」や「国際人(コクサイジン)」などとして現在も日本語として使い続けてきている。
さて、もう一つオープン・カレッジから一歩前に歩み出した全授業をネットのみで行う「ZEN 大学」なる教育機構が当に誕生しようとしている。此れまでの通信制大学機構以上に、大学という人の集うキャンパスも授業外のクラブ活動もネット開催という個人優先の教育機関とも言える。その学ぶうえでの授業料などの負担も最小の金額で抑えられていて、企業社会への人材活用の受容としても情報媒体といった最高水準の学びとして新たなニーズを学ぶところとして、その一躍を担い得るかが一つの鍵ともなっていくことになろう。
《補助資料》
▲『土左日記』為家本=青豁書屋本の「ひと」と「人」表記語例
▲『土左日記』宗綱本の「ひと」と「人」表記
▲ 定家本『土左日記』
「ZEN 大学」 https://zen.ac.jp/