萩原 義雄 識

コミュニケーション力が重要な局面を迎えようとしている。テレビ報道では字幕(テロップ)が流され、クライスター、オーバーシュート、ロックダウン、などあまり不断用いないカタカナ語が責任報道する側のことばの端々に発せられてきている。一昔前であれば、漢語表現「シュウソク【終息・収束】」などもこの範疇にあった。テレビを観ない人もいる。もっぱらラジオ放送でニュース情報を聴き取る人たちにとって、こうした非日常の言語表現がどう受け止められているのか見定めておくことも肝要ではなかろうか。

滑舌の良い人でも、年とともに滑舌がうまくいかないことも当然起こってくる。口内の歯並びがちょとでも変わったとき、食事を摂ることも儘ならない、これ以上に人との話しがたどたどしくうまく伝えられないことがその好例である。話すこと、聞くことに自身が何となく違和感を覚えるからだろう。作家の阿川弘之さんが『食味風々録』〔新潮社刊〕のなかで、「スニーカー」が「墨烏賊(すみいか)」に、「世の中」が「最中」、「汚職事件」が「お食事券」、「未だ九時前じゃない」が「又栗饅頭だ」に聞こえてしまうとエッセイにして認めていたことが現実味を帯びてきている。

世の中、社会、世界の状況事態は、暗雲低迷のまっただ中に直面している。東京は本来であれば五輪歓迎ムードで活気だっていく予定だったが、すべて世界を脅威に陥れた細菌ウィルスと人類が命がけで挌闘するときを迎えている。誰一人傷つけたくはない、この感染源を特定する困難さと我が身のためだけに傍若無人に振る舞う、切羽詰まらないと判ろうとしない無関心な人が現実には存在する。ものごとの是非を正しく知る力を試されているときでもあるようだ。

人にとって「疑惑」を抱くことは重要な知の軸となる。「うたがいまどう」行為があってこそ、物事の本質に向き合えるからだ。そこには「傍証」「確証」が得られるための知の情報が蓄えられてきた経緯がある。知の殿堂である図書館の役割がそれだ。小さな情報でも時には解決の糸口になる兆しを秘めている。この糸をたぐって「真理」に近づけていくことが一人ひとりに求められよう。はじめは極小でも、やがて万人が理会できるのであれば、まさにはじめの一歩を大切と心得ておくことである。

江戸時代を引き出して説くまでもなく、仏教の摩訶不思議、来世を信ずる彼岸思想、儒学の合理・現世・倫理、これに啓蒙を促す道徳・信義が箍(たが)となって、信用が重視され、商工業による流通機構が確立され、教育も読み書き、そろばん(計算能力)が育成されたからだ。実際のところ「ゆく水に数書く砂手習ひ」(盆・箱のなかに灰や砂をいれて文字を習う、書いては消し、書いては消す学習法)や地算(足し算・引き算)を「子守の片手に置き習ひ」した。この基盤が本邦に根強くあり、貸し借りの信用経済が確固たる力を保持増進し続けてきたのである。さらに「勧善懲悪」は、文学上のことではなく、これこそが日常生活にとって大切な生活理念でもあった。

今のいま、人は叡知に触れ、なにをすべきか、とっくと向き合うときではなかろうか。