萩原 義雄 識

春の凄風(セイフウ)が吹き荒れるなか、戸外を往き来することがめっきり堪える年齢がいつしか訪れる。此を老いと自覚するときと云うのかと思いつつも、地道にこつこつと活動していくと、喃喃蝶々(ナンナンチヨウチヨウ)とする気配もないところで陽風、陽光、陽景を俟つ思いが高まってくる。そうこうするうちに、縮こまっていた身体を「約レ車治レ装」に倣ってか、不思議なくらいに氣が巡り運ぶことができるようになる体験を成した経験をお持ちの方も多かろう。

なれば、人をわくわくと陽気にさせてくれるものは一体何なのか、毎事、毎度、傾慕できる事物に只管(ひたすら)向きあうことに尽きる。そこに笑いは景福を招き入れてくれる根源なので、それゆえ、慧口へと運ぶ。着衣も軽服なれば、縦横無尽にして言泉(ゲンセン)をほこほこと紡ぐことに一掃拍車をかけることに繋がっていく。

恵風がそよそよと吹き始めると、人は自ずと憩息の時に近づき、身を調えて、睡眠する。目覚めては、相歩(ソウホ)し、研学に勤しみ、軈(やが)て顕露し、蛍雪鑽仰の功を得ることを知る。「螢の光、牖の雪」も時の流れでかゆるゆると口遊む声を聞かない。

茲に琴瑟(キンシツ)の心を以て、心期と企望を共に果たすに及んで、友と面談し、優長を好み親しむのを指南するも誘掖(ユウエキ)の道となることを願いたい。

禪和子(ゼンオス)に从(したが)い、前日今日明日へと標(しるべ)とすべきに竹素(チクソ)し、省書(セイシヨ)し、当に水陽(スイヨウ)の祓いを水塘(スイトウ)に置いて樹徳(ジユトク)の生まれるようにひそひそと耳語(ジゴ)する。

※今回、不断から日本語の二字熟字以上の語文章を解して、心の奥底を語りつくすことに徹してみた。
どのように伝達がなされたかを筆者は書く愉しみとしている。「樂樂樂(らくがくぎよう)」の中込めの字を「白自目(ハクジモク)」に書き読むと、「楽しみ」、「音楽・楽器を奏で」、「ねがう」と意を表す。「已己巳己(イコミキ)」も同じような字形に見えて、その意義を異にする。江戸初期に編まれた『小野篁哥字盡(をののたかむらうたじづくし)』という寺子屋での啓蒙書の文字覚えにして編まれ、京都にて寛文二年に刊行されたことに始まる。

今月の文章は、同じく江戸元禄時代に編まれた『熟字便覧』七冊に所載する語を以て、作文してみた。