気温三八度に届く暑い夏が今年もやって来ている。スポーツの祭典オリンピックが仏蘭西国巴里の都で開催されている。日頃の修錬が試されることが自身の身近なところでもきっとはじまっていることだろう。なぜか、一年の半分を終えて冨濁から清貧に立ち帰り、身も心も清淨に戻し、新たな自身の歩みどころに切り替えていくときともなっている。こうした折に、人は「禁忌」の物事を知り、学ぶことが大切なことだと吾人は思う。
鎌倉時代の古辞書『塵袋』〔印融自筆写本〕卷第九「禁忌」の一條に、
信ナキ龜ハ甲ワルト云フ、如何。
過去世ニ釈迦如来ト提婆達多ト一所ニムマレアヒ給ヒキ。釈迦ハ鳫ニムマレ給フ。達多ハ龜[ト]ナレリ。舊好(キウカウ)年シヒサシカリキ。或ル時、ヒテリシテ、此ノカメノスム池ノ水ツミナ[カ]ハキツキヌ。龜是ヲナゲクニ鳫ノ云フヤウ、我レ木ノエダヲクヽムベシ。龜木ヲクハヘテハヅサスハ、ワレエダヲフクムデトビテ、水ノユタカナルトコロヘウツラン。アナカシコ、クチアクべカラズト云フ。カメ悦テ承諾(タク)シテ、鳫ノヲシヘノマヽニスルニ、トブ時キ、人ト是ヲ見テアヤシミワラフ事限リナシ。カメ、イカリテ、是ヲミルニ、クハヘタル所ハナレテヲチヌレバ、甲ワレテ死ヌト云へ[リ]。信ナキカメ甲(カフ)ワル。コレヨリハジマル歟。一切有部根本毘奈耶ニ見エタリ。〔卷九禁忌十九オ8〕
という譚があって、池水が強き陽射しが続いて、いよいよ池水が涸れて、今住まいする処を移り遷えなければならない一匹の亀の話しなのだが、その移動手段として、池に飛来する雁に誘われ、一気に空を移動する手段として、口に小枝を咥え、水の豊かな地へと飛んでいくという提案なのだが、「ああ、賢き亀さんよ、決して口を開けてはなりませんぞ」という、雁の一言の注意を承諾して、いざ飛び立ったのだ。この奇妙な光景を地上で見ていた人たちがその姿に大笑い、そのわが身を嘲笑する地上の声を聞きつけた亀は怒りの余り、口に咥えていた木の枝を離してしまい、地上に真っ逆さまにに墜落し、脊中の甲羅が破れて命を落とすという出来事となったという。この雁が「釈迦如來」、亀が「提婆達多」の生前の生命であったと云う。いま、人は多くの地球生命の一つとして言語思考と書物に記録された資料を介し、生きる糧にしてきた。此の譚がどう共鳴していくことかは、読み手の解釈能力に委ねられいると思う。
日々の暮らしには、その生き方を異にしても苦難のときが必ず各々に存在する。苦難の道は、或いは嶮しい山を登るときのようであり、やがて峠、分岐点を迎えると、苦しかった登りの坂を一気に降ることで安楽な道へとなっている。このように、苦樂の繰り返しと連続性を知るときがきっとどなたにも等しくあろう。良きも悪しきも支えられ、支え合い、励ましあって、己れの歩む道の智慧と糧になればと思う。憂いある者、物言わず、音せぬ心となる。雁が口を閉ざし黙し飛ぶことを望み、此れに亀は口を開くことと共に、一時の「禁忌」仕業に耐えられず終わった。
さて、あなただったら、どう受けとめますか。
《参考文献資料》
⑴『塵袋』印融自筆写本、十一冊〔重要文化財〕
□鎌倉中期の辞書。一一巻。著者不詳(釈良胤とも)。文永・弘安(一二六四~八八)頃の成立。事物の起源六二〇条を天象・神祇などの部門別に分類し、問答体で示したもの。後に二〇一か条が「『壒嚢鈔(あいのうしょう)』と合本して『塵添壒嚢抄』となった。【発音】〈標ア〉[ブ]
https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokuen2_siryo.html
⑵「根本説一切有部毘奈耶雑事(コンポンセツイッサイウブビナヤゾウジ)巻第三十二」
□『根本説一切有部毘奈耶雑事(こんぽんせついっさいうぶびなやぞうじ)』四十巻(唐義浄訳・景龍四年(七一〇)訳出)は、修道の資具等に関する律(梵Vinaya・毘奈耶は音写)と多種の本生譚(ほんじょうだん:仏の前生物語)よりなる律典である。本巻は茶毘紙と呼ばれる香抹を漉き込んだ料紙を用いている点に特徴があり、いわゆる「中聖武」の遺品がと思われる。巻首を欠く。(文化遺産所収)