萩原 義雄 識

日本列島に海からの贈り物が幾つあって、季節が夏から秋へと移り代わる兆しは、海や山や人里でその凉風を感じる時やもしれない。

自然の景物は、昼夜を問わず絶え間なく変化している。それを感得するのは昼よりも夜の静けさが人にとって一番わかりやすい時間かもしれない。虫の鳴き声が代表かもしれない。昼間から夕暮れ時に鳴き出す蜩蟬(ひぐらし)は都会での暮らしでは全く耳にすることはできない。だが、夜が更ける頃になると秋の訪れを今にもと感じさせるリィーリィーと云った鳴き声がそれである。

今年もその季節が巡ってきたようだ。このように聴覚を働かせて、五感の一つの器官を研ぎ澄ましていくことで、視覚(目)・嗅覚(鼻)・触覚(皮膚)・味覚(舌)と、此等が広がっていくようだ。最初から全部を働かすのではなく、幾つかの相乗作用に順いながら、各々が確実なものへとなっていくことを知り得るのが此の季節の変わり目の頃だと知り得たら、それは己れにとって最高の至福のひとときとなるのだろうから・・・・・・。

きっと、これらの出来事を記憶にとどめておきたいと人は誰でも思うのだが、失敗の苦い記憶とは正反対で、悦びごとの記憶はメモを取ることすら忘れてしまうのが常ではなかろうか。此処を手帳や携帯備えつけのメモソフトに記録ができるとしたら、ことばの宝庫の扉を開けて足を踏み入れるのに等しいと言えよう。譬えてみると、認識を高めてくれたり、感情を述べ表しやすくしたりする機能であるまいか。一種の「ニック・ネーム」づくりの生み出しの案配となる原動力に譬えられている。此れを道標のようなことば群を以て示すとしたら、
 
⑴姿形、⑵内面性、⑶声望、⑷声価、⑸運命、⑹財産、⑺業務、⑻技能、⑼学識、⑽芸術、⑾武勇、⑿行為、⒀挙動、⒁気風、⒂詞遣い、⒃著作、⒄衣裳、⒅身分、⒆癖、⒇諧謔

といった各々の標式が立てられていて、此処を通過する際に、此の道標を常に己の声として検証しておくことで、自ずと現状の実態レベルを識る手がかりが得られていくことになる。此れは、時に行きつ戻りつしつつも必ずペイントしておきたいところとなっていることに氣づかされていく。一つの情報は次つぎと新たな鑰を用意していて、箱物に容れて保管していくことへと向かうことになろう。能く言う、十把一絡げの枠組みで仕舞い込んでも、必ずしも用をなさずに終わってしまうやもしれない。その意味から、個別さが最も尊ばれていく社会づくりの仕組みの始まりでもあり、その個別なる特異性の高い情報を如何に活用しやすくその稼動システムを管理することが必要なのかを問うことにもなろう。時をかけて積み重ねていくことも大切なのだが、揺らぎに拠る欠損が起こりやすいのでは先行きが覚束ないものとなってしまう。むしろ、横並びでも良いので、負荷のリスクを避けて道筋の足跡が常に機能を失わない仕組みづくりがこの僅かながらのなかで培われていくことを切に願うと共に、これらが大地を吹き渡る風の流れのように、公私に広がり、大切な情報の表象として抑えられていくことが一番大切な方式づくりとなるからだと思う。

常に調和のとれた、決して無理をすることのない、時に強くして、時に穏やかして、この両用が伴うなかで、一種のしなやかさを醸しだしてくれる。譬えて云えば、万能の特効藥であって、その製法が代々に受け継がれていくように、一度編み出した技能術法を絶やすことなく継承していくことが求められて行くことと似ている。前に挙げた⑴の姿形から⒇の諧謔までは何度となく巡回し続けてこそ、彩りの歴史へと変遷する。此れを吾人達に教えてくれるのが当に自然界の季節の変わり目の頃の丁度まさしく今の季節なのだ。

そこで、勅撰和歌集の『後拾遺集』に、藤原実方朝臣が詠んだ諧謔の歌があるので紹介しておく。本来は詞書きがないのだろうが、何時の日か、その歌意を忘れがちだったのだろうか、詞書きを必要とするようになっていったようだ。その和歌を添えておくことにする。

[詞書き]三条太政大臣のもとに忍び侍ける。人のむすめにてかたらひ侍けり。女のおやはらたちてむすめをいとあさましくつみけるなといひ侍けるに、三月三日、かのきたのかた三夜のもちいくへとていたしけるによめる

藤原実方朝臣

〽みかの夜のもちいは食はじ煩はし聞けば夜どのにははこつむなり

歌の意は、「三日の夜の(残りの)お餅は食べまい。面倒なことだ。聞けば、淀野で母子がそのお餅に入れる草(母子草)を摘んでいるそうだから」、この懸詞から歌意は「十五夜の月が明るい夜に、あの人のところへ忍んで会いに行くのはやめておこう。面倒なことに、噂によるとあの淀野(あの人の家のあるあたり)では、彼女の母親が目を光らせて(娘と一緒に)待っているらしいから」となる。
 
□藤原実方朝臣は、太政大臣藤原忠平のひ孫として、天徳四年(西暦960)に生まれ。父は侍従(じじゆう)だった藤原定時(ふじはらのさだとき)、母は源雅信(ふじはらのなりとき)の女。叔父である藤原済時(ふじはらのさだとき)の養子となる。第六十五代花山天皇、六十六代一条天皇に仕え、侍従、右馬頭(うまのかみ)、従四位上左近衛中将を歴任する。奔放な性格であり、女人との恋愛遍歴も華やかなこともあって、『枕冊子』の作者清少納言が知られている。『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとも。長徳元年(西暦995)、陸奥守に任ぜられ、これは実質的な左遷という。鎌倉時代初期の説話集『古事談』には藤原行成と口論となって、冠を叩き落としたことが一条天皇の怒りをかって左遷されたという。だが史実とは相違する。左遷の後、都へ戻れないまま、長徳四年(西暦998)に任地で没す。馬に乗って笠島道祖神(かさしまどうそじん)【現在の佐倍乃神社[宮城県名取市]在り】の前を通った際に、突然その馬が倒れ、下敷きになったことが死因とされる。