萩原 義雄 記

大学にも秋がやってきた。時にも優しさがあると云うのであれば、朝晩の陽の帳が下りる時間が日毎に早まっていることに驚愕する。毎年のことなのに、令和になってこれがなぜか強く感じた。「秋の日は釣瓶おとし」と人は呼ぶ。その黄昏が瞬きの瞬間のように早いから、もっと観ていたいと刹那に思うからなのだろうか。やがて、灯る燈明(あかり)が家々の窓のひとつひとつに世界があるように広がりだしていく。

秋の味覚の果物などが八百屋やスーパーなどに並ぶ。巨峰、梨子、柿、栗の実、松茸、銀杏、薩摩芋。どれも「ソロめし」には見合わないものばかりだ。そして、世の中は消費税が変わる。当然、学生アルバイトの時給も最低賃金単価九九〇円から一〇二〇円へと引き上げられる。時給を上げれば事業者は、客の集客率が少ない曜日のバイト人員確保の決定が予測に反しないように見定めることも必要なのだ。外食産業にとって、学生アルバイターの確保が危うい季節なのだ。こちらも、「ヒュー、ストン!」とつるべ落としで落ちこまないことを願いたい。

こうしたなかで、スポーツは内外で日本人が来年の東京オリンピックに照準を合わせて、各種競技で好成績をあげてきている。秋とは言え、台風の影響もあってか、高気圧と低気圧の鎬あいが天空でも繰り広げられている。この地上も、変幻自在に動きつづけているようだ。こういう時こそ、能く食べ、能く眠り、ゆったりとした時にしていくことを心がけておきたいものである。

画像撮影〔萩原義雄、2011 年イスラエル国於〕

 
小学館『日本国語大辞典』第二版
つるべ-おとし【釣瓶落】〔名〕(形動)(1)釣瓶を井戸におろす時のように、垂直に急速に落ちること。また、垂直なさま。つるべおろし。*平家物語〔一三C前〕九・坂落「それよりしもをみくだせば、大盤石の苔むしたるが、つるべおとしに十四五丈ぞくだったる」*浄瑠璃・金平恋之山入〔一六八四~八八頃か〕二「谷そこを見ればがん石びゃうぶを立たるごとく、つるべおとしにすせんぢゃうそびへたり」(2)秋の日の暮れやすいさまをたとえていう語。現代俳句では、しばしば秋の落日そのものをいう。《季・秋》*歌舞伎・勧善懲悪覗機関(村井長庵)〔一八六二(文久二)〕六幕「秋の日の釣瓶落(ツルベオト)し、日の暮れるに間もござりませぬ」*自然と人生〔一九〇〇(明治三三)〕〈徳富蘆花〉湘南雑筆・鰺釣り「釣瓶落(ツルベオト)しと云ふ秋の日は、箱根の駒が嶽の上に落ちかかって」*あなたこなた〔一九八三(昭和五八)〕〈阿波野青畝〉「鬼無里(きなさ)みち釣瓶おとしにいそぎけり」(3)相場がとめどなく急激に下がること。*最新現代語辞典〔一九三三(昭和八)〕〈大島秀雄〉「ツルベオトシ 釣瓶落し 相場が底なしに低落すること」【発音】〈標ア〉[オ]〈京ア〉(オ)
あきの日(ひ)は釣瓶落(つるべお)とし秋の日は沈み始めると、たちまち落ちることのたとえ。秋の日の鉈(なた)落とし。*歌舞伎・勧善懲悪覗機関(村井長庵)〔一八六二(文久二)〕六幕「もう入相でござりますれば、秋(アキ)の日(ヒ)の釣瓶落(ツルベオト)し。日が暮れるに間もござりませねば、今日はお暇致しませう」*歌舞伎・牡丹平家譚(重盛諫言)〔一八七六(明治九)〕「一時(とき)あれど秋の日の釣瓶落しに暮れ易し」
『和伊辞典』
秋の日はつるべ落とし.Il sole autunnale tramonta rapidamente.
同題で、岡崎京子著『秋の日は釣瓶落とし』〔アクションコミックス刊〕一冊
ソロ飯
○「くそー、頭が痛ぇ。今、何時だ」ボンは時計を見た。「そろそろ飯です。でも今日はみんな閉まってますよ。我々以外、元の部隊に帰りましたからね」〔フランク・キャンパー(著)・高橋和弘(訳)『スペシャル・オペレーションー死線上の四人ー』一九九一(平成三)年、アサヒパノラマ刊〕この「そろそろ飯」の意ではない。「飯」は「飯」でも「ソロめし【飯】」=ひとりぼっちで食べる飯の意である。二〇一三年頃から巷で用いられるようになった語表現。