「風土」ということばを使って、現代社会における日常生活を眺めていくとき、「風」を旅人、「土」を土地人と見立てる。今の吾人達は暫く、今いる土地を離れて、邈か数千キロも離れたところへさえも容易に動くことができない日々を送った。斯く云う吾人も東京のくらしぶりにとっぷりつかり、人との交流もややもすれば失いかけていた。そのような月日が四年も続くと事物を正しく判断する能力が衰退していくようだった。こうしたなか、自転車に乗って、彼方此方(あちらこちら)を観て巡ることと、読んでもいなかった書物を悉く読み続けることが小さな檻のなかを歩き廻る動物園の動物のように過ごす毎日でもあった。夕暮れ時になると、東京都心を羽田空港に向けて数分おきに飛来する航空機を眺めながら、吾人も空を自由に往き来する日を待ち続けていたようだ。
そして、再び外つ国に向かう準備を重ね、此の九月中旬、中国北京に出向くことができた。此の春に伊太利亜の知人のお嬢さんが日本に言語文化を学びに一人でやってきている。トランク二つ、羽田国際空港に出迎えに行った。久しぶりのことだった。いざ出国を考えると、パスポートの書き換え、ビザの手続き、航空券の手配などに時間を割きながら、その手続きが実に新しいシステムに順い有難いものだと改めて感じた。
四時間ほどの機内も、仲秋の名月により近いところで出会い得た。今度は、中国北京清華大学での「字典詞典の研究─回顧と展望─」という研究会に日本から招かれたことに拠る。北京首都国際空港に到着し、ゲートからモノレールで移動し、入国手続きに移る。荷物預けのない吾人は、比較的速やかに出迎えの待つ出口に着いた。別便で来られる人を待つゆとりもあった。そして、タクシーで目的地に移動、大学の構内に入るゲートでは、厳密なパスポート検証、出入りは番号の提示が義務づけられていた。清華大学の構内にあるホテルに入り、くつろぎつつも今回の吾人が果たすべき目的の発表内容をチェックした。夜の食事は学外に聳え立つ高層ビル(學校経営)の中華店で円卓を囲んだ。度数53の「白酒」を頂戴した。実に旨い。食材もさることながら此れが活けた。結局、吾人は滞在中、此のお酒をいただく歓びを得た。
発表は、朝九時から夕方六時半まで続いた。此の内容はQRコードで読み取ることで、日本からも指名参加ZOOMで対応でき、日本(北海道・京都など)からの受信・発信も可能なものとなっていた。此れというトラブルもなくスムーズに進行していく。総勢二十名の発表が二日に亘って行われた。中文で「近代以前中日辞典編纂史─二十位学者共話研究軌迹与未来展望」という。
二日間に及ぶ発表の翌日、バスで高速道路を三時間行った、「清朝皇帝廟」を研学した。兎にも角にも広大な苑池でもあった。入り口から真っ直ぐ延びる道を、ゆっくりと走ってみた。心地良さが吾人を包んでいた。
カート型十二名の乗り物で移動する。橋が幾つも連なり、龍の蛇行するような道に架橋され、孔が一孔から七孔と続く。樹木は大木はなく、山々が見下ろせる庭樹が続く。栗林、胡桃の樹、畠には蜀黍が植えられていた。なかを皇帝とその后三十余の各々の廟を巡った。門額には左に漢字、中央にモンゴル語縱文字、右にチベット文字で書かれている。
朝、西の空に大きな月が見えていたのが、帰途には茜色の染まった夕闇が迫り、学びの多き時間となった。因みに、清華大学の構内には十一万三千人の人が暮らすと知り、日本の一市人口が暮らす場所、自転車、自家用車、構内バス、タクシーが往き来する。近々再度、出向いてみたいと思う場所にもなった。
《補助資料》
第210回|飛人
萩原 義雄 識