川の流れを見ると、季節の移り変わりを感じないではいられない。作家井上靖は、『川の話し』という文章のなかで「川が好きで、多少人より多く川の表情やその長い胴體に關心を持っている」と記述する。そして「川を見ていいなあという氣持は誰の心の中にでもひそんでいるもの」と云い、「遡れば遡るほど支流はふえて、たとえ一本の支流を撰んでそこを遡り得たとしても、その川の源を突きとめたといった氣持にはなりません」ともいう。

そして、「高處から低處へ流れて行く川というものを見ているのが好きなのですな」と語っている。吾人には川の源を求めてと言うか、滾滾と湧き出る「湧き場」から川下に蕩蕩と流れゆく水の徃方が忘れられない川の原風景であった。泉と呼ばれ、この川の名は柿田川と云い、行き着く先に狩野川があった。この川側道を抜けて学校へと往き来する愉しみがあった。川の潺には芹草、水草が繁茂し、蜷貝、鰍、年魚、鮠、?、山女魚、鱒が悠悠と泳ぐところで育った。忘られ得ぬ川があった。夏に湧き場のかまど潜り粘土を取った。川の中途に「青どんぶら」と呼ばれる鏡のような底まで透かす深みに神秘なものを見た氣がする。吾人に愛する人があれば、眞先に見せたいところでもあった。

川筋を追ってゆくことはずうとずうと遠い地への憧憬へと結びついている。井上靖が斯くも云う。「人間でもその立派さとはいうものは川と同じではないでしょうか。川の長い流れが河口に行きつくように、人間も生涯の大部分を終えてある地點へ來た時、その人間の過ぎ來し方の在り樣が、私などにはどうも問題になるようです。河口が幾ら立派でも、そんなことにたいして驚かされません。やはりその人間がそこへ來るまでの長いその人の歴史のあり樣が、その人を美しくも醜くも見せますね。」とし、「川というものはどんな川でも、みな海へ出ようとする一途さ持っているからでしょうか。人間でも川のような一途な流れをその經歴に持っている人は立派ですな」と述べている。

読者諸氏にもこうした川の流れに喩えて語る川なる立派な生き方がきっとおありになるに違いない。北海道岩見沢で数十年過ごした地にも空知川、石狩川があった。こゝろの友先輩のひとり高石ともやさんが歌った「川」を題材とした「川のほとり」「川よ」という歌が想いだされてきた。今宵春から初夏に向けて「万年浪人」みたいな若者が増さないよう己が教えも自重である。これこそが懐かしきあの小沢昭一流「明日(あした)がこゝろだぁ!」である。

静岡県駿東郡清水町「柿田川」上流写真

静岡県駿東郡清水町「柿田川」の湧き場