人はなにかを蒐集することに勤しむ。これを知ってか「あなたは、実際に何を蒐集していらっしゃいますか?」と聞かれたとする。――「正体がわかったとたんに、そのものが収集品としての資格を失うことと、分類整理に手が焼けるのがこのコレクションの悲哀なのだ」という。この方の蒐集するものは、お金もかけず、場所(スペース)もとらない、という「なまえのないもの」を蒐集するといったある種の高尚なる蒐集方法であった。人は必要、有用、大切なものにはきっちり名前を付ける癖があるから、「名のないもの」は、誰もこゝろを寄せたり、見向きもしないとある道端のゴミ駄目のなかにあったり、人も寄りつかない波打ち際にちょこなんとあったり、言わば「無名」のなかに置かれていたりするものであろう。

a_101森羅万象の真っ只中にあって、人は「名前」を貪るように求めてはいないかとふと思ったとき、江戸の俳人松尾芭蕉が浮かぶ。彼の名を松尾宗房(まつをむねふさ)、幼名金作、元服しての通称名を忠左衛門、これを改め忠右衛門とした。俳号と庵号には、「羽扇(うせん)。羊角(ようかく)。鳳尾(ほうび)。杖銭(じようせん)。風羅坊(ふうらぼう)。是仏坊(ぜぶつぼう)。素宣(そせん)。華桃園(かとうえん)。栩々齋(くくさい)。坐興庵(ざきょうあん)。夭々軒(ようようけん)。泊舩堂(はくせんどう)。釣月軒(ちようげつけん)。無名庵(むみょうあん)。蓑虫庵(みのむしあん)。瓢中庵(ひようちゅうあん)。桃青(とうせい)」という数多くの名を用いていた。翁が辿り付いた最後の名前は深川の芭蕉庵をゆかりとして「芭蕉」であった。このなかに、あるときには「無名庵」があったりで妙趣ではないか。

昨今、マイナンバー法でPC機器に符号と数字で管理する日が目前にちらつきだしている。この数値化の名前はこだわりや好き嫌いなどが許されない。やがて、符号と番号で呼び合うとき、日本人の底辺に潜む「名詮自性」の精神はどうあらがうのだろうか。すべての事物における名の本質は、他との識別にある訣なのだから、管理事務的なあしらいに満足はしまい。

人の名前は辞書学では、文法上固有名詞に分類する。となれば、人が蒐集するものへのこだわりとは、ことばの意味や美に反応しないではいられない人間にとって不愉快さへと歩み出すことを思わずにはいられない。人、ものの名前には、識別性プラスアルファが要請され、善美な意味と音の響きが加味されていればこそ、人のこゝろに強く永く伝えられていくことになる。例えて云えば、「1∨130」では、目は寄せても符号と番号なるがゆえに、「葦より弱い」人にとっては、これを「駒澤大学、一三〇周年」とは直ぐには読み解けまい。