萩原義雄記述

この秋、神田古本まつりの折に神田老舗の松雲堂書店さんで安価にて入手した江戸時代の版本『愚秘抄』鵜本〔定家歌論書、二条家の秘伝書として古来重んじられてきた。早く江戸時代初めに板行され、また、『群書類従』に収録されて一般に広く流布した〕この一冊を読んでいて、この「鵜末」部分に、

又名哥とて勅撰(ちよくせん)に入ぬ哥侍り
墨吉の枩の 木まより なかむれば 月落かゝる あはち嶋山

この哥を新古今撰せられしとき沙汰ありて。いかにとして今まて代々の勅撰に。もれ侍りけるやらむと。御不審(ふしん)ありしに。一同にこの哥はさしたる難侍りと申し上げしかは。いつれそと勅詔(ちよくぜう)ありしに。枩の木間よりといふこと葉の。つたなきによりて。今まてもれ侍りけるにやと。勅答(ちよくたう)つかふまつり侍しに。さてこれをはなにとかよみてよかるへきと。仰られしに。各所存(しよぞん)を申き。西行は枩の木の間よりと。をくへきにやと申たりき。こゝろはたしかなれとも。あまりに長くきこゆるにや。愚老(ぐらう)は枩のひまよりとそ申たきと。なをし侍りき。何のよろしきやらむ。是非はさため申かたくこそ。摂政殿(せつしやうとの)有家朝臣なとは。枩のひまよりとて。最よろしかりなんと申されき。このたぐひの歌かずかず侍るにや。〔五オ(8)~6オ(9)〕

という逸話があって、この歌の第二句「枩の木まより」について後鳥羽院が時の歌人らに問い、西行と定家とがそれぞれ歌語の詠み案を具申したという。西行が「木の間」、定家が「ひま」と。そして、摂政藤原有家は定家案を支持したとこの書物にはあるが、時代えてこの二案を再吟味したとき、西行案の助詞「の」を添えたことが満更でないことが見えてくるからである。
『万葉集』卷二十・大伴家持の歌四四九五番に、

打奈婢久波流等毛之流久宇具比須波宇恵木之樹間乎奈<枳>和多良奈牟
うち靡く春ともしるく鶯は植木の樹間を鳴きわたらなむ

で、「樹間」を「こま」としていて「このま」の意で「こま」と詠むこともあり得て然りとなるからである。ともすれば、歌詠みの専門家ですらこのように評定することが避けられぬ機会(とき)がある。時の代表者である後鳥羽院は、この両案をどう見定めたかは詳らかではないが、勅撰『新古今集』には所載がない。だが、西行自身の歌数は九十四首と多いのも事実である。
日本国の三〇年後の未来社会を見定めていく立場にある若者たちがこの学び舎に今当にいることを私たち忘れてはなるまい。その最中、一三〇周年記念棟の地鎮式が挙行され、これを支える杭柱が地中に埋め込まれはじめた。「温故知新」の思いをどう受け渡していくかも、同窓生ならびに現役の学生が担い続けていく。この叡智を結集して研くに相応しい「人」と「地」の現場が駒澤大学キャンパス内には存在することを見逃さないで欲しい。

架蔵本『愚秘抄』〔江戸時代・無刊記本より〕
同版本と同様の資料は、早稲田大学図書館・山口大学図書館棲息堂文庫にある。
他に、宮内庁書陵部蔵『愚秘抄』写本、松平島原文庫蔵『愚秘抄』写本〔50コマ・51コマより〕、国会図書館蔵『愚秘抄』写本〔37コマ・38コマ〕
「すみよしの 松の木間を なかむれは 月をちかゝる あはちしまやま」
此等資料が現在ネット公開されている。