萩原 義雄 識

今秋、大学に新図書館が落成し、オープンした。真新しい図書館は学びの環境に欠かせない施設となっていて、多くの書籍を借覧し、じっくりと書物の内容に関わるとき、その利用する環境は、学習の精度をぐっとあげるうえで欠かせないものとなる施設。
 図書館という施設は、学校だけのものではなく、地域の施設や各々の場所に併せた特別文庫館など多種多様な一面を有していて、そこにはあらゆる特徴を備えていて、そこで本を取り扱う専門の図書司書や本をスムーズに出し入れする職員や係員が勤務している。各々の書物をただ頻繁に活用される書物の受容性だけにとらわれるのではなく、一人の読者がたった一度しか借覧しないような特殊な書物にまで心を配り、その保管状況、書籍の傷み具合にまで目を向けて、年度の予算でその対応を継続してきている。時には、積極的に所蔵書籍の展示を以て、その書物を引き出して見せることもある。
 稍、長い説明となったが、読者は千差万別に訪う。そして借りて読む。開架式では、実際に手にとり、読むことも可能だが、多くの書物は、所蔵図書目録で管理されていて、カード化からデジタル検索でその内容を知ることができ、素早く対応ができるようにもなっている。とはいえ、人が利用しやすく考案されたものだから、文字や記号などが一字でも異なれば、己れが求める探書には巡りあえないことも実際にはおきてくる。同じ「わ」でも「和」と「倭」では、別書名なのだと知ることにもなろう。「大和」と「大倭」、厄介なのは「太田」と「大田」、「太 宰」と「大宰」の類いだったりする。
 さらに、造本の感覚には芸術性が遇われたとき、その書籍に人は人として惹きつけられもし、愛着も生まれたりもする。己れ以外の別の誰かが読んだ経跡を微塵も感じさせないものもあれば、何かしらの読む動機は異なろうともきっと何某が読んだであろうその足跡があったり、なかったり、書物は書き手と読む自分の関係だけではない何とも言えない秘められたメッセージを醸しだし感じとる場ともなっていたりする。
 ちょうど、東京神田古書街では、恒例の秋の古本市が催されている。図書館を離れて街の古本を手にとって見るのも良かろう。きっと、あなたにしか出会えない一冊の書物に出会える時になるかもしれない。
 最後に、電子デジタル画像化という書籍が場所をとらず、小さな電子機という箱のなかで読むことができても、まだまだ紙質の書物は味わいがあると思っている。
 吾人は、『枕草子』が『枕冊子』とあって、平安時代の清少納言という女人が書きとめた此の名の書物が趣きがあって、ふとした折々に読みつづけてきた。こんな折、異国の人がこれまた読む書物に今年九月に出会った。『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』ミア・カンキマキ著/末延弘子訳、遠い平安朝に生きた憧れの女性を追いかけて、ヘルシンキから京都、ロンドン、プーケットを旅する長編エッセイ。新しい人生へと旅立つ期待という草思社刊だったりする。